プロフィールにも書いてますが、管理人は白血病を持っています。病気発覚までの経緯や、当時や今現在の心境を残したくてこの記事を書きました。ただの自分語りですので、興味ある方だけ読んでください。
白血病とは
白血病と言っても種類は複数あります。僕が患っているのは「慢性骨髄性白血病」です。他にも急性だったり、リンパ性だったりと一概に白血病と言っても多岐にわたります。
よく映画やドラマで題材にされている白血病はだいたい急性のほうですね。もしくは慢性の発見が遅れ、急性転化してしまったものでしょう。
慢性骨髄性白血病は、骨髄の中の白血球が癌化して異常増殖する病です。慢性ですので、その名の通りゆっくり進行していきますが、放っておくと急性転化して命を落とすことになります。しかし現代の医療技術では、多くは飲薬(抗がん剤)のみで抑え込むことができます。抑え込むことができるだけで、完治はありません。その代わりに寛解という言葉を使います。
白血病発覚
最初に異変に気づいたのは、会社の健康診断でした。
血液検査において白血球の数が基準値を超えていました。この時点ではたしかB判定だったと記憶しています。ネットで調べても、白血球の数が増える原因は多岐に渡るため大抵の場合は放っておけばOKという旨の記事が多く出てきました。この時点では何の危機感も抱いてませんでした。
そして翌年の健康診断。白血球の数がさらに増えており、流石におかしいと思い、自らの意思で大病院で精密検査を受診。白血病発覚に至りました。これを読んでいる皆様、健康診断のB判定を甘く見ないでくださいね。
白血病発覚時の心境
精密検査時の、徐々に白血病の可能性が濃くなっていく絶望感がすごかったです。死刑台に向かって一歩一歩向かっているような感覚。白血球が多くなる病は白血病以外にも色々ありますし、白血病は10万人に1人とも言われるレアな病です。使い古された言葉ですが、「まさか自分が…」でした。
3種類ほどの検査を順番に受け、結果が出る毎に白血病以外の病気の可能性が次々に否定されていきます。病名確定するための最終検査は髄液です。とんでもなく太い針を、お尻の少し上の方から刺され、髄液を抜かれます。枕に顔を埋めて声が出そうになるのを必死にこらえました。涙は我慢しても自然と出ます。
検査の時には、必ず母が付き添ってくれていました。母も、僕と同じあるいは僕以上に動揺しているように見えました。今でも鮮明に記憶しています。
検査入院
白血病が確定した後はすぐに入院が決定。現代の医療技術では、慢性白血病に至っては飲み薬で抑えることが可能です。(飲み薬といえども高価な抗がん剤ですが)ですので、抗がん剤が効くか、副作用が出ないかの検査入院をすることになります。
抗がん剤ですので、副反応の欄にはこれでもかというくらいに様々な症状が記載されています。要するに、何が起こるか分からないってことなのでしょう。薬の歴史も当時はまだ浅いですし。これも中々に怖かったですね。白血病といえば毛が抜けるイメージありましたが…。幸いなことに、今に至るまで大きな副作用は表れておりません。内臓の数値が高くなって、薬を替えたりということはしましたが。
副反応が強く現れず、白血球の数が正常値に戻れば一旦退院です。僕はそんなに時間かからず退院することができました。余談ですが入院中は看護師さん達が良くしてくれて嬉しかったです。地獄の中に舞い降りた天使でした。
絶えず襲ってくる不安
薬が効いていると分かっても絶えず不安には襲われます。ほんの数年前までは治療不可能で、発病したら終わりの「死に至る病」でした。ネットで調べてみると、昔に書かれたであろう、悲痛に満ちた闘病記録が続々と見つかります。例えば。
- 飲薬(抗がん剤)はどんな副作用が出るか分からない
- 同じ薬を飲み続けると、いつか抗体ができて効かなくなる可能性がある
- 薬を飲んでいると子供が作れない
- 治療代が高額で払うことができず死ぬ人がいる
子供については元々そんな欲しくもなかったのでそこまでショックは受けませんでした。いつか抗体ができて効かなくなる可能性がある、というのは怖すぎます。
あとは治療代ですね。白血病が不治の病である以上は一生物の問題です。白血病の治療薬は高額なうえ、毎日飲み続けないといけませんから。
白血病の治療薬
保険未適用だと3か月で170万円という高額な薬です。高額医療制度を使えば、収入によって変わりますが普通のサラリーマンであればだいたい3ヶ月分で5万円程度までに抑えられます。
絶望
将来のことを全く考えられなくなりました。いつ再発するかも分からないですし、いつ薬が効かなくなるかも分からないですし。仕事する気力が湧きませんでした。
働かないと薬が買えなくて死んでしまう。でも治療代のためだけに働く人生に何の意味があるんだろう?
…などと考え続け、夜も満足に眠れず、睡眠導入剤に頼って無理やり寝る日々でした。物事を深く考える癖があるので、こういう時には裏目に出ます。
病気になる前も、決して順風満帆とは言えない人生でした。そこに泣きっ面に蜂どころではない、トドメの一撃を食らった気分でした。
楽に死ねる方法を調べてみたり。遺書を書いてみたり。極めて冷静に、こんな毎日なら生きるより死んだほうが楽だな……と本気で思っていました。
絶望からの立ち直り
死にたい病に感染していた僕を現世に繋ぎ止めたのは、思春期頃に母が言っていた「自殺は最大の親不孝」「あんたが死んだら私も死ぬんだからね」という言葉でした。正直死にたいと思ったのはこの時が初めてではないのですが、母のこの脅しにも似た言葉は僕には効果抜群でした。
生きているだけで精一杯な、ボロボロでヤケクソで最低な日々を過ごし、結局解決してくれたのは時間でした。病気を理解し、休みが取りやすい職場に就職。忙しく働いているうちにだんだん不安が軽減されていきました。
病気発覚から数年が経っても特に何も起こらず、もしかしたら長生きできるかも?と少しずつ思えるようになってきました。
将来を考え、貯蓄を意識し始めました。猫と戯れ、植物を愛で、家族と過ごす時間は素直に幸せです。(特に植物を愛でることなんて、色々な意味でゆとり無いとできないことですよね)
僕は環境に恵まれていたんだと思います。特に両親には様々な面で助けられました。この両親じゃなかったら、きっと僕は今こうしてこの記事を書いていない。
病気後、母に一度「幸せってなんだろうねえ」と世間話の流れで聞いたことがあるんです。返ってきた言葉は「母さんの幸せは、あんたが幸せでいることだよ」でした。
こんな重い言葉ありますか?
僕が幸せじゃないと、どうやら母まで不幸になってしまうらしい。いつの間にか、2人分の人生を背負っていたようです。
母の愛が強すぎて父の存在が薄れがちですが、父は僕が社会復帰できるよう、経済面で支えてくれました。本当に感謝しています。まあ、離婚しちゃってるんですけどね。
いつか必ず、父にも母にも「僕はあなた達の息子として生まれてよかった」と最大限の感謝を伝えるつもりです。もし僕が先に死んでも、このブログにたどり着いてこれを読んでほしいな。
って、縁起でもない。