※今のこの気持ちを忘れたくなくて、ここに書き残します。いつもの植物や庭の話ではありませんが、どうかご容赦ください。興味ある方だけどうぞ。

2025/10/12
今から約1週間前。2025/10/06の月曜日。早朝。
最高で、最強で、最愛の猫が19歳5カ月で旅立った。猫の宿命と言われている腎臓病だった。
平和だとは言いづらい僕の人生において、あいつはいつも変わらず隣にいてくれた。一緒に過ごした時間は、きっと肉親よりも長い。あいつは僕にとっては生きる理由であり、自分を構成する一部、いわばアイデンティティだった。
一般的には犬は従順、猫は人に媚びずマイペースだと言われているが、あいつはどちらにも分類されなかった。家のどこにいても後ろを付いてまわり、お風呂やトイレに入れば、ドアを開けて中まで侵入。帰宅時には車のエンジンの音を聞き分け、玄関まで迎えに来た。あいつの混じり気のない純粋な愛情に、どれだけ救われたことか。
24時間ほぼ一緒にいたせいか、家のどこにいても幻を見る。姿は見える、声も聞こえる。ただ触ることだけができない。辛い、悲しいという言葉だけでは到底足りない。強烈な違和感と、喪失感、虚無感。自分が自分じゃ無くなったようだ。それでも、時間が少しずつ解決してくれると信じたい。
彼女が旅立ったその日の夜は、空には眩しくて美しい、中秋の名月が浮かんでいた。月の中にあいつの影が見えないか、しばらく空を見上げたまま、動けなかった。これからは綺麗な月を見かけるたび、思い出すんだろうな。月の光を反射する、あいつの白い毛並みと、腕に抱いたあの重さと温かさを。亡くなる2日前の夜、抱っこして少しだけ庭を散歩したが、ほのかに温かく、でもとても軽かった(書きながら泣きそう)。
できることなら、僕の寿命を半分あげて、同じ日に旅立ちたかった。人間は生き方を自由に選べるのに、死に方や死に場所は選ばせてもらえない。後追い自殺は、人生に絶望して命を断つのじゃなく、ただずっと一緒にいたいという想いの延長にあるのだと思う。それを美しいとさえ感じてしまう自分がいる。
僕の中には、「後を追って死にたい」という気持ちがはっきりと存在している。でも、生きる理由があるうちは、死んではいけないことも痛いほど理解している。生きる理由。それは単純な話で、自分がいなくなったら悲しむ人がいるから。理由なんてそんなものだろう(尤も、その理由の1つはもう無くなってしまったけど)。
こうして書いていると、病んでいるように見えるかもしれないが、全く病んではいない。この死生観は、ずっと昔から持っているものだ。ただ、猫の死をきっかけに、改めて思い出しただけ。
白くて可愛くて、いつも幸せをくれた彼女がいなくなったことで、僕の日常と生き方は、間違いなく大きく変わる。ここから先は、第二の人生。セカンドライフだ。友達と家族と生き甲斐を一気に無くしてしまったような感覚だけど、それでも、がんばって生きていこうと思う。
P.S.
マカロニえんぴつの「なんでもないよ。」のフレーズが胸に刺さり、涙ぐむなど。この曲もたまに聞こう。
会いたいとかね
そばにいたいとか
守りたいとか
そんなんじゃなくて
ただ僕より先に死なないでほしい
君といるときの僕が好きだ
2025/10/21
約3週間が経ち、当たり前の存在が消えたことへの寂しさはいくらか和らいだ。しかし今も、腎臓病末期を宣告されてからの激しい痩せ細り方、そして徐々に動けなくなっていく彼女の姿を思い出しては、胸を締め付けられる毎日を過ごしている。
要するに、闘病した愛猫の姿を振り返り、「可哀想だ」と未だにメソメソしている。
猫は人間と違い、生前に何の業も負わず、徳しか積んでいないはずなのに、死ぬ時は人間と同じように苦しまなければならない。それが理不尽だと感じてしまう。
最期の1日、意識が朦朧としていたのだろう。それでも僕が顔を近づけると、空気が漏れるような、消え入るような小さな声で、たしかに反応をくれた。当時の写真や動画はたくさん撮ってある。それらを見返すたび、「よく頑張ったな」という言葉が頭に浮かぶが、そのたびにモヤモヤする自分もいる。理想論だし、不可能なことだが、それでもすべての苦しみから彼女を守ってあげたかった。
写真を撮る機会がめっきりと減り、カメラロールを開くとすぐに晩年の姿が現れる。写真を別の場所に移動すれば悲しまなくて済む。だが、「死」という理不尽に果敢に立ち向かったあいつの勇姿から、目を背けたくはない。早く立ち直りたい。だが、逃げたくない。そのジレンマに囚われ、毎日見てしまう。
寂しさを紛らわすためには、別のペットを飼えばいいとよく聞く。でもあいつの存在は唯一無二であり、代わりなんてこの世にいない。人間は色々と選べるが、猫からしたら飼い主はたった一人だ。人間側の自己満足かもしれないが、僕はその事実と向き合ってあげたい。膝の上と枕元は、彼女のための予約済みの特等席だ。生涯、空くことはない。
こんな調子で、今も愛猫のことで頭がいっぱいだ。いっそあいつが夢に出てきて、「いつまでメソメソしているんだ!!」と一喝してくれればスッキリしそうなものなのに。
そもそも子供の頃から、動物のお涙頂戴の物語は大の苦手だった。『ハチ公物語』はトラウマで、それ以降、そうした話は避け続けている。捕食シーンも未だに苦手だ。偽善と言われるかもしれないが、苦手なものは仕方がない。一般的に見たら、痛い男に分類されるのかもしれないけど、それも仕方がない。
またそのうち追記する。
2025/11/08
ちょうど一ヶ月が経った。モヤモヤするのは、もうその不在に慣れ始めている自分がいるからだ。この悲しみは乗り越えて前を向きたいと願いながらも、あの子と過ごした一片の記憶すらも忘れたくない。
それでも、ふとした瞬間に一人でいると、今でも涙が溢れてくる。思えば、猫がまだ若かった頃から、いずれ来る別れを想像しては涙を流すという、男のわりに結構な痛いムーブをキメていた。この深い悲しみは、下手をすると一生消えないのかもしれない。
かつて、猫へのあまりに強い想いを「依存」ではないか?と自問した時期もあった(特に20代の頃、生活が不安定だったこともあり)。しかし、人生においてしっかりと地に足が付いた後も、この愛情の大きさは変わらなかった。これは依存などではなく、ただただ純粋な、異常なほど膨れ上がった愛情だったんだと、今では確信している。
そういえば、一度だけ夢で会えた。残念ながら、あの子が家から脱走して迷子になるという、不安を覚えるような夢だったけど。一方、妻は、あの子が空に向かって穏やかに歩いていく夢を見たらしい。どこかで楽しく、のびのびと過ごしていてくれたらと願うばかり。もし死後の世界があるのなら、あの子はきっと寂しがって鳴いているだろうから、すぐにでもそっちに行って抱きしめてあげたい。あと何年経ったら、僕はその場所へ行けるんだろうか。会いたい。
あの子が亡くなって一週間ほど経った頃、思いがけずNintendo Switch 2が当選した。「きっと、楽しそうにゲームで遊ぶ姿が見たくて、プレゼントしてくれたんだよ」と妻は言った。そんな奇跡があるわけがないと頭では分かっていても、そう信じたい。僕がゲームをしている傍らで、丸くなって昼寝をするのが日課だったものね。温かい贈り物をありがとう。
次は四十九日だ。今まで、四十九日という節目をこれほど強く意識したことはなかったな。